この記事では私が生まれてから大学を卒業するまでをまとめます。
こんな記事をだれが読むのかと思うのですが、人にはそれぞれルーツがあって、意外と共通点があったり、ちょっと面白かったり、個人的に他人のルーツに付け入るのが好きなので、ざっくり私をまとめようと思います。
1993年 生まれる
生まれは神奈川県。
その後、父の仕事の都合で、栃木県の日光市、中禅寺湖の周辺に住んでいたようです。

4歳くらいまでいたと聞きますが、断片的にしか憶えていません。
とはいうものの、一昨年日光に行ったときに、幼少期の記憶がフラッシュバックしました。少しですが。
また、母が働いていたレストラン兼お土産屋で働いていたのは何故だか、明確に覚えています。
1997年頃 出身地の盛岡市へ

父の故郷でもある岩手県の盛岡市へ引っ越しました。トラックか、自家用車かなんかで、日光から盛岡へ向かったのは、覚えている気がします。引っ越しの時かは確かでは無いですが。
育った町は盛岡です。出身地と出生地って、結構違う人多いんじゃないでしょうか。
盛岡へ来てからは記憶があり、「やまぎし保育園」というところに通ったのですが、最初行きたくなくて、保育園の玄関で爆泣きしたのはよく覚えています。
その後小学校では特に大事件もなく、ふつうに通っていました。
2006年~ 中学・高校時代
中学ではハンドボール部

中学の頃はハンドボール部でした。1年のころ3年の先輩にこっぴどくいじめられて、単純に嫌な思いをさせられたので、「悪しき習慣は次代の為に正さねば」と思いました。3年次は副部長でしたが、実質部長でした。人をまとめるのは好きでした。
ちゃっかり最後の大会で優秀選手に選ばれたりして、嬉しかったです。へたくそでしたが誰よりも声を出していたのは憶えています。
高校では途中までボクシング部

第1に珍しい!というのと、はじめの一歩の影響と、百田尚樹氏が著したBoxの影響もありました。中学から盛岡市安倍館にある、「ミナノボクシングジム」というところに通っていました。
将来はプロボクサーになりたい!みたいな野心は無く、かっこいいこと=人と違うことをやりたいという動機が先だった気がします。
そんな感じでやっていたのですが、高校1年のころには県内のボクシング部員が選抜されて参加できる合宿にも行かせて頂きました。某有名強豪大学ボクシング部での合宿で、金メダリストであり世界チャンピオンにもなった村田諒太選手も居て、軽いスパーリングをやらせて頂いたのは忘れもしません。
しかしその合宿で体験した体育会系な雰囲気に絶句し、将来を悲観し始め、私はボクシング部を退部しました
部活を辞めたのちは”実質帰宅部”に所属している友達とよく遊んでいました。
謎の部に入部
ただ、退部して終わり、では済みませんでした。
当時岩手の県立高校は、原則どこかの部活に所属していなければならないのです。
“実質帰宅部”はあっても、どの部にも所属しない”無所属”、というのはないのです…。
というわけで、やむなく、部員数が最も少ない、自由さ(帰宅部さ)が売りの「国際研究部」に入部。
帰宅部生活が始まるも、やることが無く、このままではいよいよ将来が危ないということで、英語の勉強を始め、英検も2級まで取り、運良く大学受験もせずに済むことになったので、3年の冬にはスピーチコンテストに出場し。うっかり優勝してしまいました。
当時の動画もまだ見れますのでよかったら。
当時同じ大会には、現フジテレビアナウンサーの久慈暁子氏も出場していましたが、この人にも勝ちました。これと、村田諒太選手とスパーリングしたことは私の自慢話です。
2012年 文教大学国際学部に入学する
推薦で文教大学へ進学。スピーチコンテストに出場する過程で、将来は岩手の観光業を盛り上げるぞ!という意思を強く持ち、国際学部の国際観光学科に所属しました。
エコツーリズムという、観光・環境・地域の持続可能な形を実現する理論に心打たれ、そっち方面に進む中で、今住んでいる山北町に巡り会いました。
私と山北町、移住に至った経緯はこちらのブログ記事にまとめますので、よかったら読んでみてください。
変な友人にもたくさん会いました。
山手線を歩いて一周したり、山手線を今度は外回りで一周したり、山手線を終電後に内回りで一周したり。島に旅行に行ったり、インターンにまた島にいったりと、学生時代は本当に色んな方に恵まれました。
一応大学では勉強もして、ゼミでは経営学を専攻し、裏ゼミではエコツーリズムを専攻しました。
大学でも変わったサークルへ
大学でも人と変わったことをやりたいという熱は冷めきらず、変なサークルへ。
演劇サークル 劇団すばる
1年~2年次まで友人らと演劇サークルを作って活動していました。大学の教室で稽古をしました。基本の発声や、表現についてなど今に活きるものを当時勉強させて頂いていました。
スポーツは「点数」などで一定の勝ち負けの指標がありますが、演劇はそういうわけでもなく、努力とその方向性が成功に繋がります。大学2年のころに山北町にハマってしまったため、演劇はやめさせていただきました。実は今も機会があればやりたいな~なんて思っています。
もう更新されていないけど、こちらに活動のもろもろが残っています。
フラサークル
演劇以外のサークルも掛け持っていました。それはフラサークル。

大学1年のころ、崇拝していた教授から、「ピザパーティーやるけど研究室にこない?」という甘い誘惑に負け、研究室にいったところ、サークルの説明会でした。フラといえば女性のものだとばかり思っていましたが、男性のフラもありました。
これは今しかできないぞ!と勢いで入部し、部長までやりました。後輩も女子ばかりで、今思えば人を扱うことが一番難しく思えた時期でした。部員もなかなか集まらず四苦八苦していたことをよく覚えています。
文化祭への出演や、市内での発表の機会を多く頂け、色々と勉強になりました。
当時フラの講師として及びしていた方はハワイ大学まで通われた方で、特に大学のサークルだからと、フラやフラにまつわるハワイの歴史・文化について熱心に教えて頂いたことをよく覚えています。
ちなみにフラはハワイ語で「ダンス」。日本では「フラダンス」とよく言われますが、甚だおかしな表現なんです。「ダンスダンス」ですよ。
2016年 大学卒業
色んなサークルに入り、山北にも出会えた私は、就活をすることなく卒業を迎えました。そして、山北町に移住しました。
その後のことはこちらのブログ記事にございます。
まとめ
以上まとめでした。
本当に色んな関わって下さる方がいて、今があるなと思います。
大学在学中のことは色々すっ飛ばしているので、よかったらこちらの記事も読んでみてください。
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